実家療養を決めた金曜の午後、ふと立ち寄った本屋で平積みになった村上春樹のアフターダークの文庫本を手に取った。
- 村上 春樹
- アフターダーク
小説を読むのもちょっと久しぶり。
最近ちょっと余裕が足らなかった。
村上春樹を読むのもちょっと久しぶり。
「海辺のカフカ」をハードカバーで読んで以来数年ぶり。
- 村上 春樹
- 海辺のカフカ〈上〉
- 村上 春樹
- 海辺のカフカ (下)
自分がもはや思春期を過ぎ(?)、春樹世代でもない(?)ことから、もはや期待して読むわけではない。
相変わらずの、まどろっこしい描写、薄口の語り口。
だから、期待してないからいいんですけど。
そんな見方をしていると、若干「24」みたいな、マルチストーリー展開に安っぽさまで感じてしまう。
だから、話の面白さがどーとかは置いておいて。
日本語的ではない、リズミカルでお洒落な文章を味わえば良いと。
その中で良かったお話。
彼女は言う、「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとっては別にどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円刷の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、全然役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
僕は、どの記憶もが同じただのわけ隔てない燃料だとは思わないけれど、記憶が燃料という表現は、今の病気療養の床についている自分の状況とマッチして、とても納得的な表現だと思った。特にやることもなくボーっとしていると、色々な記憶が甦り、何が自分にとって大切なのか、そういうことを思い返すきっかけになったりする。生きていることを、少し肯定できたりする。
燃料を補給して行こう
そう、思えた。